›9 18, 2013

絶望の日常の中の希望

Category: 日々雑感 / 0 Comments: Post / View

デフレからとても脱したとは言えない状況下での消費税増税、円安による輸入物価の上昇に伴う日常生活費の高騰、原発停止によるエネルギー価格の上昇ととても生活面では苦しい状況になるだろう。
かれこれ20年も続くデフレにより、物価は安くなったが賃金は下がり続け、非正規雇用という不安な状況で毎日をただ過ごしている人がどれだけ多いか。
自殺者は毎年3万人もいて、最近ではうつ病などメンタル面での病気を抱える人が増加している。今や仕事もせず、家に引きこもって親のすねをかじるニートの平均年齢はなんと40歳にもなっている。ニートの親、親の介護だけのために生きる者、ただ人生が蝕まれるだけと感じている人も多いだろう。
そして超高齢化社会だ。仕事など生産活動をせず、医療など社会保障費が莫大に上昇を続ける。

そんな絶望を抱えたままの人が多くいる中で、東京でのオリンピック開催はわずかながらの希望の光だったのかもしれない。

過去の東京オリンピックは、それに向かって国民が一丸となって急速な経済発展をした。需要が急速に増加する中、国民が必要とするインフラ整備と公共事業がマッチして高度成長の土台を築いた。しかし、次の東京オリンピックに向かい、必要なインフラはわずかだ。むしろ7年後の日本の財政状況は深刻な事態を迎えているはずだ。

日本はバブル期、そしてデフレに苦しんだ不況の時代でさえも、身の丈にあわない生活を続けてきた。それが原発による低電気コスト、国債発行による将来世代への借金による幸せの先食い、家計での住宅ローンという莫大な借金といった未来へのツケ回しだ。
産業の多くが、人口減少やグローバル化による新興国の台頭によって成長期から衰退期へと移行している。

しかし、成長と消費が望めない社会に資本主義が持続可能なのだろうか。成長を目指し、生産性向上に突き進んだせいで、人は社会や環境とのつながりが疎遠になってしまった。たかだかえんぴつ1本にしても、グローバルな自由貿易が可能にしている。電化製品や自動車などは、高度に分業化され、分業化された人や部品はその全体像などわからない。

食品にしても、今では高度に分業化されている。映画「フードインク」では、牛を太らせるため草しか食べないはずが遺伝子組み換えとうもろこしをチューブを胃に突っ込んで無理やり食べさせている現状を見ることができた。コーンはうまくできないため、胃の中でO-157のような食中毒細菌が繁殖してしまうのだ。また、本来の体重の2倍以上に太らせ、狭い小屋で密集して運動もできない状態で育てるため、体重が支えきれず脚を骨折してしまう家畜がいる。映画「ファーストフードネイション」では、大規模ハンバーガーチェーンを支えているサプライチェーンのピラミッド構造が描かれていた。ホワイトトラッシュと呼ばれる貧困層がチェーン店舗を機械的に運営し、食肉工場はメキシコからの不法移民による危険を伴う屠殺の現場に大きなショックを受けた。

効率を求め豊かになった一方で、環境を破壊し精神的には日常に生活感を実感できず、仕事にも社会性を体感できない。歯車の一部になってしまっていることこそが、日常の中で絶望感が漂う大きな原因なのではないだろうか。スピリチュアル・セミナ、社会活動、男性の風俗などはそのような日常の延長から非日常を体感したいという欲求が大きい気がする。

資本主義で動いている社会で不満を持っても、変えることはできない。それならば、生きながら希望を見出すしかない。貨幣中心の社会だが、カネだけではない、例え収入が低くても死にはしないのだから、その中で身の丈にあった生活をして、生きがいを見つけ、他者とのコミュニケーションを通じて社会とのつながりを意識することに希望を感じる。

Comments