›9 10, 2010

キャピタリズム~マネーは踊る|マイケル・ムーア

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マイケル・ムーアの資本主義の問題を提起した映画「キャピタリズム~マネー」を見た。
映画は一般人が住宅ローンを払えずに家を差し押さえられ、警官にドアを破られて追い出されるシーンで始まる。
このシーンはムーア監督のデビュー作「ロジャー&ミー」のシーンとそっくりだ。ロジャー&ミーではGMの工場移設により崩壊していくGMの城下町のドキュメンタリーであったが、同じ風景が全米のあらゆる地域に広がっているのだ。

家を差し押さえられる人の悲惨さが同様に繰り広げられる。そして飛行機のパイロットの現状が繰り広げられる。パイロットの給料はもはやタコベル(タコス屋チェーン店)店長よりも低い。人の命を預かる重要な職業が低賃金で良いのか疑問を投げつける。

ウォルマートなどの優良大企業が、労働者に生命保険をかけて企業が受取人になっていることも発覚した。

青少年の鑑別所も民営化されたら、些細な非行でも長期間拘留されることとなった。

ムーアの子供の頃は違った。米国企業は労働者にやさしく、皆が中産階級になれた。働くのは父親だけだった。それが新自由主義者による行き過ぎた資本主義により貧富の差が拡大した。企業は生産性の拡大を行いつつ労働者への報酬の還元はほとんど行われなかった。

これらは資本主義の根本にある利潤追求が問題の原因と非難する。そして民主主義的な企業運営の必要性を提示する。

どういうことかというと、資本主義の経営の基本は「所有と経営の分離」、「株主利益の最大化」である。そのために利益を上げておきながら労働者のレイオフが平気で行われたのが、「ロジャー&ミー」のGMであった。解雇された労働者は住宅ローンが払えずに家を失った。
民主主義の基本は人権の平等であり、金持ちだろうと貧乏だろうと、ひとり1票の等しい権利がある。株式会社では、資本家が所有者であり、しかも株式の持ち分比率で議決権が違う。

見ていて思ったのは、これは資本主義が悪いのか?ということだ。

ムーアの子供の頃と違うのは、米国企業の競争力が低下したためだと思う。第2次大戦後、日本、ドイツは戦後復興で企業はゼロから競争力をつけていった。そんな発展途上国の方が競争力があるのは当たり前で、米国企業は海外に生産拠点を求めたり、生産性の向上を目指したのだ。

ムーアは「ロジャー&ミー」でGMを変えられなかったと言っていたが、GMが労働者主導の会社になったならばむしろもっと倒産が早かったのではないか。
また、家の差し押さえは、米国では住宅ローンは家を手放せば借金から解放される。日本では家を売却しても残った借金は返し続けなければならない。それに比べたら再起は楽に思える。そもそも住宅ローンを差し押さえられるのに、差し押さえを行う警官や銀行に文句を言ってもそれは筋が違うように思える。

そのような点はあまり共感できなかった。

ムーアは民主主義的な経営を行っている企業の取材も行う。その企業は意思決定を経営陣にゆだねるのではなく、労働者が意思決定を多数決で行う。給与も利益処分も労働者が決めることとなる。映画ではわからなかったのだが、利益は株主には配分されないのだろうか。

企業の利益を労働者に配分されるのであれば、それはもはや資本主義ではない。そしてそのような経営形態が発展途上国が台頭しつつあるグローバル社会で通用するのだろうか。

映画の後半は、ウォール街と政治の世界にスポットがあてられる。
ウォール街の投資銀行や金融機関は何にでも富を生み出す金融工学を駆使する。製造業のように付加価値のあるものを生産するのではなく、強奪に近いビジネスモデルだ。CDSなどのデリバティブで、中産階級や貧者から家を取り上げ、資産を巻き上げることによって巨額な富を生み出している。
そして政治は完全にゴールドマンサックスの関係者に牛耳られている。

このようなことにマイケル・ムーアはもはや立ち向かうことができないと叫ぶ。資本主義の強欲さを追求するあまり、民主的なプロセスが米国から失われてしまったのだと。

映画の内容は既に様々なメディアで暴露されていることが多いが、それでも資本主義の問題を映像によって目の当たりにしたことで衝撃的だった。
何故、たった1%の人が99%の富を独占するのか。働いても収穫のほとんどをもっていかれる小作人のような労働が現在の米国でまかり通っている。そして家などの資産も巧みに奪われてしまう。

暴動が起きないのは、米国では誰もが成功者になれると夢を見ているからだそうだ。

見た後もとても考えさせられる映画だ。

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