›8 09, 2010

生きる|黒澤明監督映画

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50年以上も昔の映画だが、黒澤明監督の最高傑作とも言われる作品である。人間の生きる価値や真価について非常に考えさせられる作品であり、現代においても決して色あせることのないテーマである。

主人公の渡辺は、市役所で30年以上働き市民課課長の立場にいる。仕事はこなしているだけ、自分で忙しい状態をつくるだけが仕事で、実際には何もしていない。市民の要望や苦情が来ても他の課に回すだけであり、他の課もまた別の課に回すだけ。タライ回しだ。
「何も仕事をしてはいけないのが役所」そんなことを言う者も出てくる。

ところがこの渡辺は胃痛で病院に行ったところ胃癌であると知る。当時の胃癌は死刑宣告だ。絶望し欠勤し、初めて自分の金で酒を飲む。絶望したのはこれまでの人生であり仕事をしてこなかった生き様に対する後悔だ。胃癌で半年から1年しか生きられないと知り、逆にそこから初めて「生きる」ことを真剣に考えるようになる。

役所が舞台となっているが、会社、家庭、学校に置き換えてみると、見る人誰もが思い当たる節があるはずだ。真剣に生きているのか誰もが考えさせられる。だからこそ長い年月世界中でこの映画が支持されているのだ。
人生を時間を潰すだけに使っていいのか、そのような後悔というのは死に直面して初めて強烈に意識するのかもしれない。

渡辺は人生で初めて貯めた大金で遊び狂おうとするが、それでも他の人たちのようには楽しめないことを知る。渡辺の部署にいる若い女の子が退職願いの了承を求めて欠勤中の渡辺に会いに来るのだが、渡辺は天真爛漫で楽しく生きているその女の姿勢に憧れる。
渡辺は惰性で仕事をしてきたことを「息子のため」と言うが、その言葉に女は猛烈に反抗する。「親はそういう言い方をするが、子供は親のそんな生き方を望んだのか、何故子供のせいに」と。

これもまた誰もが思い当たるはずだ。会社や役所のような組織には順応しないといけない。それは子供や家族の生活のための自己犠牲だと。生きがいを犠牲にしたり、自己主張を抑えて必死で生活をささえているという意識があるはずだ。

しかし、それは言い訳に過ぎないということを知る。役所を辞めおもちゃ工場で働く女が単純労働の中にも面白とやりがいと世の中に役立っている話を聞かされある決断に至る。

結局は自分の人生の後悔を人のせいにするは卑怯なのだ。そしてどんな境遇であろうともやりがいを見出せるし、世の中の役に立つことをできる。どう取り組むかは本人の意識であることを思い知らされる。

渡辺は残りの人生を役所に懇願しにきた市民のためにつくすこととなる。
渡辺のように残りの人生を意識し変わることができるのか。渡辺の葬式で役所の同僚は「同じ立場だったら俺だってやれる」といい、「明日から俺も変わる」という者もいた。
人生とは、結局毎日の自分の行動の連続である。「生きる」こととは人によって違うだろうが、やはり何かを成し遂げること、人のためになること、何かに情熱を注ぐことなのではないだろうか。飢え無いで生存するだけなら動物と変わらないし、現代の日本では基本的人権として国が面倒を見てくれるレベルだ。どれだけ高い意識とそれに到達するために努力するかが人間の価値なのではないだろうか。


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