›6 08, 2010

リトルチルドレン(大人に成りきれない大人)

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映画「リトルチルドレン」は話題になった映画だ。ボストン郊外の高級住宅地で繰り広げられる日常のストーリーで、日本でもごくありふれた話にも見える。
専業主婦のサラは、公園でママさん連中の輪になかなか入れないタイプで、旦那が部屋でかなり変態な自慰行為をしている現場を見てしまう。
イケメン・パパのブラッドは司法試験に2度も落ちていて勉強をしながら嫁が働き主夫をしているのだが、勉強に身が入らない。夜図書館に行くふりをしてスケボーしている少年たちに憧れを抱いてずっと見続けているような男だ。
そんなサラとブラッドはちょっとしたことから不倫関係となる。
サラは日常から脱出したい願望を持つ大人になれない大人。ブラッドは少年時代にできなかったことや学生時代の栄光を今でも思い続けている大人になれない大人。
そんな街にロニーという元幼児性犯罪者が済んでいる。ロニーの母も子供を溺愛するのだが、ロニーは大人にはなれない変質者だ。
そのような流れで話が展開していく。

この映画を見て思ったのだが、現代社会では団塊の世代から下の世代というのは、誰しも大人に成りきれていないのではないか。

社会が豊かになったおかげで飢え死にすることが無くなった。必至で生きるために働くというよりは、仕事は自己実現といったより高い動機を求めることになる。
だが、日常生活においても仕事においても、自己実現を目指すというのはなかなか大変だ。夢とか希望というのがなかなか見いだせない大人は、少年時代や若き日の体験を思い出し、そのような生活への回帰を願うのかもしれない。

考えてみれば、少年時代は全てが新鮮で、何者にも成ることが出来た。それが大人になり社会からも家庭からも大きな制約と義務を受けることになる。
子供のころに戻りたいなぁとか、あーこんな時ドラえもんがいたらなぁ、と思ったことは誰しもあるだろう。
しかしその夢は叶わない。現実の中でしか生きることはできない。

だから映画「リトルチルドレン」でのストーリー展開とラストが妙に心に残った。ネタバレになるから書かないが。
そして現代の大人はみんなリトルチルドレンであり、やがて映画のように大人になる試練や機会があるのではないだろうか。


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