›3 22, 2010

団塊の世代の夢想した生活|太陽の季節|石原慎太郎

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昔から退職時期を迎えている団塊の世代のお父さん方って結構単純でパターン化できると思っていた。価値観が多様化されていなかったので少ないパターンに分類できるのだ。

彼らの世代を大きく2つに分類するならばモラトリアム(自由な猶予期間)を体験したかどうかが重要だったと感じる。それは大学に行ったかどうか、裕福な家庭に育ったかどうか、といった議論も多くされているので結局そのような価値観に通ずるのだと思う。

団塊の世代の連中が育った環境は日本は敗戦処理で、多くの国民が貧困層であったもののその後の高度成長期でほとんどが中産階級意識を持つに至った。彼らの世代の多くは大学まで行くことのできない家庭で育ち、中学、高校卒業後すぐに働かざるを得ない環境だったし、労働が美徳として育ったと言われている。

充分に青春を謳歌することなく社会に出たものと、いわば時間を持て余す大学生活を送ったもので価値観の形成が違うのは無理が無いと思う。そのため団塊の世代を親として持つ団塊ジュニアは理解力のある父、ない父、厳しい父、友達のような父と極端に分かれているのではないかと思っていた。

昭和30年代の貧しい中で石原慎太郎は「太陽の季節」を大学生の時に発表し、その小説の中で描かれた裕福な家庭で甘やかされて育った男子達を描いて衝撃を与えた。親から買い与えられた自動車を乗り回し、夜はクラブで遊びまくりナンパに明け暮れる。週末は海辺の別荘でヨットに誘う。大学に通いながらも特に目的を持たずモラトリアムを謳歌する。当時ではおよそ考えられなかった裕福な生活だったに違いない。だが、それから50年経つとほとんどの日本の若者は、太陽族と呼ばれた得意な学生と同じ生活をすることになってしまった。

今はまた不況で、現在の大学生は実にシビアな見方をしている。戦後最も優秀な人材はこの中から生まれてくるのではないかと思う。彼らは、浪費や無駄な遊びを軽蔑し、また国の将来をこれまでの世代が無関心だったのとは対照的に心配している。
コミュニケーションのあり方も変わり、右傾化などと言われているが、それは彼らを全く理解していない。

彼らを理解する本はまた別の機会に紹介したい。


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