›12 02, 2013

里山資本主義の推奨と問題点

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「デフレの正体」が大ヒットとなった藻谷浩介氏の著書「里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く」は、マネーが中心となった現代社会の問題点を指摘し、文明化から取り残された里山(地方都市の田舎)にこそ幸福があるということを多くの事例を交えながら紹介してくれる。

藻谷氏の主張には賛同させられる点が多い。マネーによる交換と貿易の自由化により、利便性と豊かさは得られるようになったが、これは諸刃の剣だと思う。特に思い知らされたのが、東日本大震災の直後だ。物流が止まり、ガソリンは入れられなくなり、コンビニから水も食料も消えた。幸い数日の我慢で済んだが、これが長期化したとき都市生活に慣れきってしまった現代人に自給していく能力は無い。

グローバル化による資本移動の自由化により経済効率は急速に高められてきた。効率性を重視するのであれば、国内の非生産的な産業を廃止し、生産性の高い産業に特化して非生産的な産業は輸入すればよい。それによって急成長したのが、シンガポールだ。同国は農業を捨て、金融とITに特化することにより、アジアにおける一人当たりGDPの高さでトップとなった。

日本は安全保障上の問題という建前から、国内農業を死守(本音は票田)してきたが、エネルギーに関しては完全に輸入に依存しており、とりわけ中東に依存していることから、中東で戦争が起こり供給が停止でもしようものなら電気が賄えないばかりか、米や野菜を運ぶ物流も麻痺してしまうだろう。

このような不安定な状況でバランスを取って生きているのが現代の日本人なのだ。何でもカネで買うのが当たり前の世界であり、自分も毎日のように肉を食べるが、そこに感謝の念など無かった。その裏には汚い工場のような宿舎で食肉として育てられる動物がいて、かつては蔑まれた屠殺してくれる人達がいるのだが、そんなことを意識する人がどの位いるだろうか。

我々の生活基盤は資本主義の前提である、平時の安定した世界の政治・経済状況に依存しているのだ。

さて、里山資本主義では歯止めの掛からなくなった資本主義社会に警鐘を鳴らしている。資本主義ではマネーが中心の交換社会だが、そのマネーさえも電子化され実態が無くなり、更には政治的に景気対策と称してマネタリーベース(通貨の発行量)を意図的に2倍になど増やして(通貨価値は2分の1に希薄化される)コントロールされてしまう世界だ。

このような世界では、本来の衣食住に携わる職業が極端に減り、仕事内容は細分化され自分の仕事が社会にどのように役立っているかも分からなくなりがちだ。単に、マネーを得るための稼ぐ手段が職業であり、労働となっている。人間本来の自然と共に生きるという本能があるからか、現代型の社会、資本主義に馴染めなくなった者は、うつ病を発祥したり、人のつながりが無くなれば社会の底辺に埋没してしまう。

平時では何にも問題の無い者も、資本主義の勝者である金持ちも、いつかは来るであろう震災であったり有事によって社会の基盤が傾いたとき、自給して生きる能力が無い社会なのだ。

しかし、里山には資本主義には無いものがある。

里山ではマネーが絶対的な指標ではない。マネーが無くても食料もエネルギーも手に入る。人と人とのつながりや物々交換、里中にある資源も利用できる。それは資本主義の遥か昔からあった商慣行であり、資本主義によって忘れられたものでもある。

里山では兼業農家でも自給しようと思ったらできるし、猪や鹿や鳥など狩猟もできる。それらを物々交換することもできる。日本は林業は補助金無しでは食っていけないが、バイオマス燃料という発電方法が紹介されている。(もちろん里山にある程度の木材では地方都市のエネルギーを自給することなどできないが)

但し、里山では都会よりも豊かな生活ができるというのは幻想だ。

コンビニもドラッグストアも近くに無い生活に都会暮らしをしたものが馴染むことができるだろうか。また本書では地方都市での生活費の安さが強調されるが、仕事を探すのは至難の業だし、賃金も安い。それでもやはり生活費の安さは魅力的に写るだろうが、実はコレ、都会の人から巻き上げた税金で成り立っているのだ。

田舎に引かれる道路も電車も橋も電気・水道といったライフラインのインフラも地方都市の経済力でつくれるものではない。地方交付税という都会から集めた金を国が再分配する仕組みの上で成り立っているのだ。更に言えば、全国一律の賃金にかかる累進課税も年金受給金額も田舎には有利だ。都会の年収600万円と田舎の年収300万円では、生活する上での金銭価値は同じようなものかもしれないが、賃金が高ければ累進課税による納税額が大きくなる。

更に、田舎で農作物を販売しつつ自給にも物々交換にも使うというのは、市場を通さないため納税を行わないが、都会の人達は税引き後の賃金から更に消費税を払い農作物を買い、その金額にはJA(卸売り)と八百屋(小売)と更に物流コストまで支払っている。それだけでなく、関税のため本来の農作物の価値の何倍もの費用負担を消費者は行っているのである。

林業のバイオマス燃料としての有効活用の事例を見ても、日本の林業は税金投入という補助金により生きながらえており、それをさらに発電し売電するという家庭でFIDというこれまた電気利用者の負担による優越的な買取価格制度の恩恵を受けていることになる。また田舎には当然年寄りが多く、その年金や医療費は若者の多く済む都会が負担していることになる。

そのように考えると、たしかに里山の生活は良いかもしれないが、その前提には日本社会の税制度の歪みを利用したただ乗り(フリーライダー)要素が強く働いているのだ。都会のとりわけ若者が働いても貧しい裏にはこんな里山の豊かな生活を負担しているからなのかもしれない。


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